結城秀康は徳川家康と於万の方の間に産まれた2番目の男子でなかなか認知してもらえず
秀吉の養子になり結城家に入ったという話がよく知られている。
なぜ認知されなかったかといえば、築山殿に認知されなかったからというのが専らな理由
なのだが、認知しない理由がわからない。秀康の母親が築山殿が側室と認める女房で
なかったからというのも大雑把な気がする。
では、その母親、於万の方がどのような出自だったかというと、ウィキペディアによると、
家康の母、於大の方の姉妹の娘となっている。家康とは従妹だ。そして、水野信元の血縁者
である。いまここで水野の血筋の子が家康の子として認知されるとどうだろう。
信長との取次をしている信元、於大の方は信元の妹、彼女の夫は信元に近い関係、、、
秀康の周りの水野派は圧倒的に力を持ち、信康は嫡男の座を追われるかもしれないだろう。
ひょっとしたら、暗殺されてしまうかもしれない。信元はそんな狡猾なところがあった
のだろう。後、天正3年に武田と通じたということで殺害されている。これは後に信長に
よって冤罪とされているが、当初はそれだけ危険視されていた人物なのだろう。
天正2、3年あたりは長篠の戦を挟んだ時期だから、家中にそのようなもめ事が起きるのは
士気に障りがあっただろう。ゆえに認知を拒んだ、先延ばしにしたのではなかろうか。
築山殿一人の意思でのことではないような気がする。