「天守物語(1997)」を改めて観た。
天守物語
演出として良かったのは、播磨守をきちんと登場させて図書之助の人間界での生き辛さを視覚的に訴えているところだ。立ち廻りのシーンを図書贔屓になっている薄の実況で済ましたなら緊迫感に欠けたことだろう。また、図書の顔は雪洞がかざされるまでは横顔もしくは、半分しか見えない。故に雪洞の灯によって全てが露になった時の富姫の感動を観る者も共有できた。だって、図書が1ミリの歪みのない美しい顔にほんの僅かのあどけなさを含んで灯の中で露になるのだから!素晴らしい演出だ。(歌舞伎でのこのシーン、お約束のように観客が笑うのだそうだが、信じられない。ちゃんと鑑賞してほしい。笑うために劇場に行くんじゃないっ!)
さて、こちらの図書之助は当時28歳の宍戸開である。宍戸は歌舞伎役者ではないのだが着物の捌き方や立ち居振る舞いが美しく、玉三郎丈の富姫と並んでもなんら遜色がない。しかも、素顔のままで野性味のある美しい顔立ちなので、富姫が恋に落ちるのに理由がいらない。むしろ、顔だけに惚れたわけではない、という言い訳が必要なレベルである。いや、その前二回の会話で彼の性格は十分理解したのだから、顔は「あと一押し」でしかなかっただろう。
では、登場時の図書之介はどんな感じかといえば、冷静沈着で理路整然とした物事を伝えられる賢さと富姫の存在を立てるだけの思慮深さを持っているが、良くも悪くも、どちらかと言えば理不尽な主従関係に馴染んでしまった武士である。宍戸が等身大で演じていたとして、まず武士は15歳ころ元服するので、10年強も奉公すれば理想だけでは主君に仕えられないことは理解しているだろう。それゆえ播磨守からの切腹の命も当初は受け入れるしかないと心の整理がついていたように思われる。
それが富姫の「鷹には鷹の世界がある。」という多面的な視野を示したのを境に、眠らせてしまった自身の自我を呼び覚まし、さらには富姫への愛と忠義につき進んでいくのである。
富姫の「鷹匠だと申すよ。縁だねぇ。」は彼女にとって宿世くらいの意味を持っただろう。
実は團子丈の演技を見て、こちらの図書之助像が上書きされてしまうのかと思っていたが(それはそれで構わないのだが)、二十歳の図書之助の見る景色と28歳のそれとは別物なのだから、どちらの演技も好ましいと思い至った。むしろ将来團子丈が28歳になった時にこのお役を勤めたならどのような解釈をするだろう、と楽しみになってきた。