摂関期子記録データベース摂関期古記録データベース より
権記 寛弘八年(1011年) 六月二十一日
二十一日、癸亥。院に参る。召しに依りて、近く候ず。御漿を供す。仰せて云はく、「最もうれし」と。更に召し寄せ、勅して曰はく、「此れは生くるか」と。其の仰せらるる気色、尋常に御さざるに似る。去ぬる夕、御悩に依り、近習の諸卿・侍臣并びに僧綱・内供等、各三番を結び、護り奉る。御悩、頼り無し。亥剋ばかり、法皇、暫く起き、歌を詠みて曰はく、「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事そ悲しき」と。其の御志、皇后に寄するに在り。但し指して其の意を知り難し。時に近侍せる公卿・侍臣、男女道俗の之を聞く者、之が為に涙を流さざるは莫し。
御堂関白記 寛弘八年(1011年) 六月二十一日
二十一日、癸亥。此の夜、御悩、甚だ重く興り居給ふ。中宮、御几帳の下より御し給ふ。仰せらる、
「つ由のみの久さのやとりに木みをおきてちりをいてぬることをこそおもへ」
とおほせられて臥し給ふ後、不覚に御座す。見奉る人々、流泣、雨のごとし。
小記目録 寛弘八年(1011年) 六月二十二日
二十二日。一条院、崩ずる事<最後の御歌有る事。>。
一条院(天皇)の辞世の句が誰に贈られたものかを、行成は定子(「前」「故」がないので彰子と考える場合もある)、道長は彰子としているけれど、あの時、院が一番気がかりで心残りだったことは敦康親王のことだったと思う。親ならば最後まで心はそこにあったと思う。歌はその心を共有してくれている人(々)に向けてのものだと思う。なんなら対象は敦康親王本人だったかもしれない。史料は書き手がそう思った、と言っているにすぎないと思う。