運よく図書館で 現代語訳「家忠日記」を借りることができた。
「どうする家康」の家康と瀬名の関係は微笑ましいのだが、実際はあそこまで睦まじく
平穏なものだったのか疑問だ。そして、黒田基樹氏の「家康の正妻 築山殿」はとても納得の
いくものだったが、自分でもできる限り調べてみたかったのでこの本を読むことができて
良かった。
実際、築山殿に関することは、「天正6年 2月4日 よいは雨 大雪が降り三尺積もった。
信康の御母様より音信があった。」の一行だけだった。そして、築山殿が自害した
(もしくは殺害された)日(天正7年 8月29日)、家忠は日記をつけていない、
日付はあるが記入されていないのだ。
家忠は一行日記だがまめに記すほうで、天気だけの時もあれば、仕事、趣味、社交のこと
など書きつけている。当時の日記は子孫に習わしを伝える役目もあったので、
書く必要があったのだ。だから、書かないのはよほど忙しい(戦とか)書くのが憚れる時
といえる。
この日も、ほんの数日前の連歌のお付き合いや、習慣のお寺参りなどは書きつけていた
のにポツンと空いて残していない。そして、二日後(天正7年 9月1日)
「家康が病気のため家忠は出仕しなかった」と記している。
ちなみに信康の死の時期家康は北条氏との調停をまとめるために家臣を差配し武田と戦い、
一方、家忠は築山殿の時と同様に自決した日とその二日前はなにも記していない。
家忠にとって二人の死は大きく心を動かすことで、家康にとっては築山殿の死は悩ましい
ものだったように見える。
家忠にとって築山殿はどういう人物だったかは、わからない。家臣に直接指図するのは異例
で分をわきまえないのだろうが、お声がかかるという程度に信頼を置いてくれていたとも
いえるだろう。
ただ、築山殿が死ななければいけなかった理由は見つけられなかった。家忠にもわから
なかったかもしれない。お声がかかったからお応えしよう。ご満足いくようご奉公しよう
と思っていた矢先の事態にショックを受けたのかもしれない。でなければ、あのたった一行
を残しておくことは危険だ。
このように家忠日記の行間はとても雄弁で興味深い。まだまだ序盤なので頑張って読み進め
ていこうと思う。